独白

偽善ウェルカム

「この偽善者!」 と叫ぶとき、それは生粋の悪人を糾弾するとき以上に激しい感情が込めらている。
「偽善者」は唾棄されるべき。
これにはまったく同意見。
しかし、「偽善者」という存在と「偽善」という行為とは分別して扱われるべきものかもしれない。

行為者がどんな皮算用や思惑でそれを行ったにせよ、事実としてその恩恵を受けた人が存在するのであれば、それは事実として「善行」である。
たとえ「偽善者」が自らの悪としての存在を覆い隠すために行ったものであっても、行為そのものが「善行」であればウェルカムだ。
ドシドシやってもらって構わない。
自らの醜悪さを隠すためのボランティアやチャリティであっても、励行したいくらいだ。
「この偽善者が!」と批判するだけで、なんの行動も起こさない善良な一般市民より、行為自体は評価されて然るべきだろう。

だが、自らは善人であると誤魔化す「偽善者」は許せない。
本当に許せない。
まったくもって許せないが、偽善者とそうでないもののボーダーラインはどこに存在するのだろうか?

偽善者には2種類、存在する。

自らは善人ではないという自覚を持っている意図的な偽善者。
自らは善人のはずだという思い込みのもとに、自覚のない偽善者。

「自分と違う罪を犯したからといって他人を責めるな!」というquoteがtumblrのダッシュボードに流れていたけれど、こうしてみると偽善者ではない人間とは甚だ希少であるように思える。
後者の自覚のない偽善者が増殖している。
彼らは、SNSの成長にともなって、「自分が犯した罪」以外の罪人を責め立て、いい人に見せるための投稿に余念がない。

自覚のある偽善者は、相も変わらず世界のど真ん中でしっかりと熱演中だ。
自由と正義の象徴が、経済政策のひとつとして行われる戦争に大義を与えるために「正義」をコピペしてスピーチをする。
この世界で「正義」が声高に叫ばれるのは、戦争がおっ始まる時だけだ。 それ以外で「セイギ」と呼ばれる行為が行われることを僕は目にしたことがない。

ああ、だからタイトルは訂正されるべきだ。
「偽善」はウェルカムだと書いたが、最も大きな「偽善」、戦争はいらない。
そして正義の味方気取りで、実際は大広告主の代理店に過ぎないマスコミも、いらない。

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