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糸井重里「インターネット的」レビュー「そしてTumblr」

インターネットと言う言葉がなんだか懐かしくって、思わず手にとった。
インターネットと言う言葉には、なんだか自由で開放的で可能性を感じる響きがあった。
そして2001年に書かれた本書は、しがらんだセケンをブレイク・スルーしようという思考とその希望に満ちている。

しかし、今ではインターネットもネットと縮めて軽く扱われ、ただただリアルなセケンを効率よく拡大するための土管に過ぎないとの軽い失望感がある。
何故日本人をジャップと縮めて呼ぶことが蔑称になるのかが、僕にはイマイチわからなかったが、インターネットがネットと縮められている様に、そのニュアンスが肌で感じ取れる。

10年経って光を浴びて

2001年に出版された時には、あまり話題にならなかった本書。
僕もこれまでその存在を知らなかった。
10年以上経って、現在を予見している予言の書として今では話題になっているらしい。
しかし、書かれていることは、今現在を予見しているとはいえない。
正確に言うと、こうであってほしかったというあるべき未来像が書かれている。

リアル社会の肩書やポジションに縛られず、公私の境界が曖昧な個人がその個性で、乱反射的に自由につながっていくフラットな社会。
マーケティング的に作られた勢いが価値を決定しない社会。
雑談よりもくだらないどうでもいい情報の中に、キラリと光るナニカを見つけられる社会。

現在は

しかし現在は、Facebookが社会の肩書どころかママ友の交友関係まで可視化して縛り上げ、Twitterは有名人とそのフォロワーというピラミッド関係を強固にし、いいね!やRT、PVがより「勢い=価値」に拍車をかけている。
そうして巡る情報は、キラリと光るナニカを含んだ無駄なものから、お役立ち情報の仮面をかぶった空っぽなものに取って代わってしまった。

もっとも重要な予言

そう!だから、本書の冒頭にある一節が、もっとも重要な予言になってくる。

「インターネットそのものが偉いわけではない。インターネットは人と人とをつなげるだけですから、豊かになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう思っているのかによるのだと僕は考えています。」

そして巻末にある現在書かれた「続・インターネット的」ではこう書かれている。

「インターネットで人は変わらない」

だから、ネットという仕組みをどうこねくり回すかではなく、インターネット的な自由でフラットな思考をしていかなかれば、セカイはイチミリも変わらないのだ。

そしてTumblr

本書の中の「インターネット」の記載の箇所を「Tumblr」に置き換えて読んでみると、とてもしっくりくる。
この、唯一現実のポジションパワーに関係なくフラットに人が繋がれるセカイは、ネットでもSNSでもなく、インターネットそのものともいえる。
くだらないもの、キレイなもの、どこで使っていいかわからないくらい狭くて深いもの、地味でささやかでグッと来る話。
そうした本当にどうでもいい話が、ものすごい勢いでやりとりされている。
そしてそこには、おすそわけ精神に飛んだあなたのためのカジュアルキュレーターがゴロゴロいてくれる。
誰かが、「遂にTumblrに行き着いた」と言っていたけど、ここがインターネットの今見える最終形なのかもしれない。

希望も

今のネットのネガティブな部分を書いてきたが、それでもやっぱりポジティブな部分もある。
「糸井重里」という看板がない僕のような弱小ブロガーでもブログというカタチで発信ができて、検索エンジンの仲介のもとに誰かさんが読んで反応をしてくれる。
どこの誰だかわからない人と、どこの誰だかわからない人だからこそ出来るフラットな個人としての素のやりとりが楽しめる。
確かにインターネットがなければ、こうしたことは起きていない。
僕の拙い独白をガリ版刷りにして、駅前で配るわけにはいかないのだから。

「ほぼ日」を始めたきっかけ

野球選手といえば長嶋茂雄であるように、コピーライターといえば糸井重里である人が、なぜある日すっぱりとゼロスタートで「ほぼ日」を作ったのか?という経緯も語られている。
そこにはマネタイズがどーしたこーしたっていう方法論以外の、生き方としての価値選択がある。

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