独白

「社交スキル」という防護マスク

こう見えて「社交スキル」はそこそこ高い。
親しみやすい笑顔の挨拶と時事ネタを織り込んだウィットに富んだ会話、決してぶつけない甘いビーンボールでのけぞらせ、うまい具合に距離を詰めていく。
だから初対面の人とでも、いい感じに間を持たせてと言われれば、アラホラサッサーとお安いご用。

「では『社交性』が高いのですね?」
と問われれば、それにははっきりNO!と答えることが出来る。
そう僕の性質は「社交性」は極めて低い。
しかし、スキルとしての「社交スキル」は高く身につけている。
もともとは、誰にもその存在が気付かれず、部屋の隅っこで独りで本を読んだり落書きしたりしているような子供だった。
そうした子供が、そのスキルを身につけるようになったのは、必要にかられての事だった。

小学生の時に初めての転校。
まあよくありがちのことだけど、よくわからないままイジメにあった。
内向的で群れに馴染んでいない弱者を見つける嗅覚を持つ、別の種類の弱者達がその張本人。
ただ、長い昼休みと下校時間、そこだけ注意を払っておけばなんとか生き延びることが出来た。
幸いイジメの張本人たちは頭数が少なかったために、学校にいる間中イジメにあうような地獄とは縁遠かったのだ。
敵の数が少ないのなら、こちらの群れを大きくすればいい。
なんて論理的に考えたわけではないが、誰かと一緒にいれば奴らは手を出さないことに気がついた。
明確なディシジョンをしたかどうかは覚えていないが、そのころから「社交的」になろうとした。
絶えず誰かとコミュニケーションを図ることで独りでいる時間はほぼ無くなり、奴らは近寄ってこなくなり、いつの間にやらイジメは消滅した。

それからは、社交スキルの皮を被った実は内向的なオトコとして生きてきた。
あまりにも身につけたスキルが高いために、後天的にマスクを被っていることに殆どの人は気づかない。
だから、世間様が社交的なオトコに要求するものに見合うように生きてきた。
そうして何十年かを過ごすうち、「社交スキル」を発揮しなければならない場面で息切れをする自分に気がついた。
ノリとテンションでこれまで乗り越えてきたいつもの場面、そこが簡単には乗り越えられずに躊躇するようになった。
体力的な問題ではない。
やれないのではない。
やりたくないのだ。
あるとき緊急避難的に身につけた「社交スキル」のマスクのまんま、生きてくことにココロがついてこなくなってしまった。
聞いてもらえると安心した瞬間から止まらなくなる自分語りに、七色の相槌を打ったり、何の興味も持てない相手に、聞くと喜ぶであろう質問をこさえる労力とか、これまでフル稼働してきたそうした装置のスイッチが一切入らなくなってしまった。
被り続けてきたマスクが、いつの間にやら合わなくなっていたようだ。
度重なるシャバのアクシデントにマスクが変形してしまったのか、ずっと隠してきた素顔が変容してしまったのか、あるいはその両方か。
マスクと素顔のギャップを埋めるあの愛想笑いは、随分前に在庫切れを起こしたまんま。
次の入荷予定は未定だ。

「もうマスクを外しちゃえば?」
声に振り向くと部屋の隅っこであの頃の僕が佇んでいる。

あの時マスクを付けたおかげで守られてきたのは間違いない。
しかしそのおかげで望まぬ渇きも味わった。
「そうだね。もう外しちゃおうか。」
この先、風向きがいいのか悪いのか検討もつかない。
ただ、どんな風でも素顔で浴びて、生きていきたいと感じるこの頃。
身につけたスキルとマスクは捨てて、それにともなうシガラミは残らず焼却して、真正面から浴びる風は爽快なんじゃないだろうか。

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