ブログなんて始めるのは簡単だ。
誰かさんの許可がいるわけでもなく、検定試験が存在するわけでもない。
テーマに制限があるわけでもなく、書きたいことを書きたいだけ、好きな様に書けばいい。
「自分に書けるのだろうか?」
なんて悩んでしまう必要はない。
なんだったら、それは文字ではなくて写真だって構わない。
いわゆる人気ブログにしたって、ハッとする写真やグッとくる文章ばかりが並んでいるとは限らない。
そこにあるのは、とりたてて特殊とはいえない画像や文字の羅列だ。
「こんなの誰でも書けるだろう」
そう高をくくって、始めてしまえばいいのだ。
ただ、書き始めてみると、誰でも書けると思ったものが、決してそうではないことに気づく。
なんとなく書きたいことが目の前をよぎり、あわててそれを捕らえておく。
小さな檻からソレを丁寧に取り出して、感じるナニカを文字にしようと、いざ背筋を伸ばしてみるものの、キーボードに置かれた両手はぴくりともしない。
書きたいナニカはあるものの、主語も述語も曖昧で、あの時感じたココロも桜前線のようにはるか向こうに行ってしまったことに気づくだけ。
特殊な表現を用いようとか、読み手に伝わるように腐心するなんて野望はこれっぽっちもないのに、平易な文章さえも一文字も打てない。
そうして普段のコミュニケーションも、いかにいい加減にやっつけているかということに気付かされる。
生返事と、なんとなくの表情と、コピペする絵文字。
そうしたものを羅列して、伝わるだろうという甘えと伝わったことにしておこうという気遣いで、空白のコミュニケーションをつくりあげるだけ。
そこではなんにも伝わっていないし、そもそも伝えたいことがあったことさえ不確かだ。
ブログというものがいかに自由な形式が許されるとしても、流石に空白は許されない。
キラリと光るものが1ミリもないとしても、なんとか伝えたいことをひねり出して表示させるしかない。
表示されるそいつは、これまた落胆を誘うだろう。
肝心なことは曖昧で、贅肉のように不要な部分はたっぷりで、句読点については五月雨のようにランダムだ。
しかしそれでも書くべきなのだろう。
ひねり出されたものを読んでみて、自分は何を考えているのかと向き合ってみる。
朧気ながら、その根底にある自分オリジナルのフィルターのニオイがしてくる。
いつまでたってもキラリと光る文章が書けなくとも、その存在に気づくだけでもブログをはじめる意味はあるだろう。
セカイに広く読んでもらおうという野望とは無縁なところで、一人静かに自分と向き合うために。
日記という甘えの構造を選ばずに、ブログという公開性を通してこそ見える自分というものもあるはずだ。
今のところ、僕のブログに来るヒトは検索キーワードの終着駅として流れ着くのであって、僕のフィルター目当てに来ているわけではないだろう。
だけどいつか、もう一歩進んで、読んでくれるヒトと、そのフィルターを通したアレコレを共有できる面白さにたどり着けるのかもしれない。