かのブルース・ウェインは「守りたいものがあるのならマスクをつけろ」とロビンにいった。
ゴッサム・シティでさえそうであるのなら、それよりも世知辛いセケンを渡るには、実名というマスクが欠かせない。
実名というマスクは、自分100%では出来ていない。
もとよりそれは、自ら選択したものではなく与えられたもの。
それは、誰それの家族、どこそこの学校を卒業した、アチラの会社に勤務している等々の属性が不純物として混入することにより成り立っている。
そうした共通項による緩やかな保障に守られるかわりに、しがらみというコストを負わなければならない。
実名というマスクをつけたままでの発言は、その属性に基づくしがらんだ役割を演じたままの台詞に過ぎない。
自らの選択ではなく与えられた名前に基づき、先天的、後天的に発生する関係性が有機的にしがらんで、もはやマスクを外した自分が誰なのか認識できないまま、場面に応じた自分以外の何者かを演じ続けている。
Facebookはそうしたものを、電脳世界にまで拡大した。
インターネットにはじめて触れた時、自分として、自由でフラットにセカイとつながることを期待した。
匿名性があたりまえの黎明期に、下卑た発言が目立つことはなかった。
しかし、匿名性を盾にしたネットビジネスがのさばるようになり、Facebookという実名の脅迫を受けるようになり、「バレないから何を言ってもいい」と「バレるからきれいなことしか言わない」という、一見は二極化しているものの単なる表裏一体のセカイが進行していく。
表は、そのタテマエに磨きをかけ、裏は、見えないほどの闇に沈んでいく。
それは、ネットリテラシー以前の問題なはずだ。
名前が見えないからとアラを探し尽くして総攻撃を仕掛けるのも、名前が見えるからと「感動しました!感謝です!」と薄っぺらいおべんちゃらをふりまくのも、ネットだからそうしているわけではなく、リアルでも同じことを、その人間性はやっている。
リアルでは揮発してしまうものが、ネットではログとして表示され続けるだけの違いだ。
キュレーターとしての専門知識の引き出しもなく、有名人でもないのに、なぜブログを書くかといえば、セカイとフラットにつながりたいからだ。
なんとなく思いつきで始めたブログだが、書いているうちにそうした欲求が強くあることを実感した。
実名という不純物だらけのマスクを外し、演ずるべき役割はあっちにおいといて、自ら選択した名前でサーバーにつながる。
学歴、職業、年収、その他諸々のアレコレをすっ飛ばして、ありのままの自分としてセカイにつながる。
誰かさんの顔色を伺うことなくコトバを連ねることは、カモフラージュをまとったスナイパーになるということと同じ意味ではない。
背筋を伸ばして、ありのままの自分として発言すること。
素っ裸であるからこそ。
そしてフラットであるからこそ、真摯に率直に書きたい。
愛想笑いは、その在庫が厳しく、ネットのセカイにも回すほどの余裕はない。
ブログというカタチにせずに、引き出しの中の革表紙の日記というカタチにするという選択肢もあるはずだけど、人目につくかもしれないという可能性が文章の背筋を伸ばしてくれるような気がする。
自分しか読まないと決めた文章は、主語も述語もあいまいで、そのくせ感情の表現ばかり押しが強くて、未来の自分にはさっぱり理解できないことが多い。
だから、公開というフィルターがあったほうが未来の自分にも親切だ。
未来の自分は、現在の自分とは別の人なのだから。
それが、ブログを書くという意義なのかもしれない。