Drainage

久しぶりの煙草に、違和感はなかった。
ここんとこ、それがなかったのが不思議なように、肺にも指にもおさまりがいい。

どれくらいやめていたのか勘定しようと目線を上げると、紫煙と白煙が混ざり合っているのが目に映った。
そうだ、吸い込む前の煙は紫色だったっけ…
思い出すことで、彼はその勘定を忘れてしまった。

頭の中まで煙に埋め尽くされると、彼の時間は空白に埋め尽くされた。
ただぼんやりと、反射的に煙の流れて行く先を目で追った。

昼下がりが終わろうとしているセカイは、早い黄昏に包まれようとしている。
目的を持たず留まっているのはセカイで自分だけだと気付くと、彼は煙の勢いにさえ劣等感を感じた。

俺は、漂ってさえいない。

そういえば、寝た後に主語を指定した女がいた。
「私と付き合うんなら、主語は僕にして」と。
冗談じゃない。俺は俺だ。

ふと、彼女のことを思い出そうとしたが、どうしても首から上が思い出せなかった。
煙草もやめろと言われたっけ。

くわえ煙草でネクタイを緩め、少しばかり思い直すと、とうとうそれを丸ごと外してしまった。
それが反射的に2本目を引っ張りだすきっかけになった。

懐かしい柔らかい黄昏は、急に記憶の蓋をひっぺがし、ある日の空を垣間見せる。
いつか、こんな空の下でシャボン玉をとばしたっけ。

シャボン玉になれればいいなぁ。
透明でキラキラ光ってふわふわ空を飛べる。
なにより、前触れなくパチンと消えられる。

跡形もなく、その始末を誰に委ねることもなく、存在がゼロになる。


「同じものを。あなたは何にする?」
「あ、僕もホットで大丈夫です。」
「時間まだ大丈夫だったかしら?」
「ええ、もう少しなら」
「それでね、そのあとが大変だったのよ。」

確認するのなら、おかわりを頼む前にやってほしい。
なにせ、この間あった面白い話というやつを、もうかれこれ一時間以上聞かされている。
驚きも深みもない話に、七色の相槌とジェスチャーを織り交ぜ、話しやすくするお膳立てにも、そろそろ疲労を感じ始めたところだ。
嬉々として話すお相手は、スマホが震えると即座に手に取り話し始めた。
流れるように外に出て行くまで、こちらを振り返ることはなかった。

すかさず煙草に火をつけた。
煙草が吸いたかったわけじゃない。
頭を空っぽにしたかっただけだ。
煙と一緒に頭に溜まったノイズを吐き出したかった。
長引く気配に、立て続けに2本目に火をつけた。
マラソン選手の水分補給と一緒だ。
きつくなる折り返しに備えて、カラダとメンタルを立て直すのだ。

予想通り長引いた通話のあと、悪びれもせずに戻ってきた相手は、レコーダーのように正確に続きを話し始めた。
それとなく時計を見やる動作も踏みつけて続けられた話は、ようやく終わりを迎えたようだ。

彼は、適切に面白かった点をでっち上げ、コンパクトにまとめた感想を伝えた。
「そうなのよ!」
喜び、エピローグを追加し始めた相手をみると、どうやらそれはうまくいったらしい。

喫茶店の外では、夕暮れの助走も終わりを迎える頃だった。
相手の背中を見送りながら、こちらを振り向く丁寧さを持っていないことに感謝した。
愛想笑いの在庫が底をついていると、アラートが鳴っていたからだ。

スマホの着信履歴を確認だけすると、彼は何も見ていないようにポケットに戻した。
知ってる名前と知らない番号、そのどちらにも反応したくはない。

「もう、俺の排水口は目一杯だ。これ以上何かが流れ着いたら、目詰まりしてしまう。」

はしゃぐ下校途中の女子高生達と、思いつめてランドセルを握りしめて歩くひとりぼっちの小学生。
その間を泳ぎながら、駅に向かう。
住宅地にも近いここらでは、そろそろ夕飯の匂いが漂い始めた。

その匂いに彼は足を止める。
ずいぶん昔に同じ匂いを嗅いだような気がする。
いつで、どこだったのか、彼には全く思い出せない。

探る作業を、メールの着信が邪魔した。
なんのことはない、いつものように欲しいものをこのかた提示したことのないダイレクトメールだった。

工場の生産ラインのような改札を抜けて電車に乗ると、ポケットからスマホを取り出した。
SNSをチェックすると、流れるようにイイねボタンを押す。
このボタンを開発したやつは天才だ。
ただ押しさえすればいいのだから。
そこには、感想を捏造する労力は求められていない。
もとより、投稿した本人もそれを望んではいない。
数さえ上がればいいのだ。
撃墜王を自称する戦闘機乗りが、機械的に機体にペイントするように、そこに一つ一つの意味は求められていない。
ただ、いくつあるのかという事実だけが必要なのだ。

そうして撃墜王の伝説作りに手を貸しながら、さして心を引かない広告を開き、ニュースとも呼べないニュースに目を通す。
誰かさんが離婚をし、誰かさんが揚げ足を取られていた。
ふと目をやると、同じように生気のない顔達が、スマホの画面を覗き込んでいた。


逆方向に向かう電車に乗ったことに、なにか考えがあったわけではない。
顔の合わせづらさばかりを考えるうち、気づけば3駅過ぎていた。

ああ今ならすぐに帰れるなぁとアタマによぎるのに、どうしてもカラダが動かない。
彼は、乗車口の脇にへばりついたまま、まばらになってく灯を数えていた。
メイクではカバーできないほど疲れた顔のOL。
何を飲んだのか、思いつかないほど酔いつぶれた床のサラリーマン。
彼らを眺めるうちに、一歩を動かすことがめっきり億劫になっていく。

どこだかわからない駅に、いつだかわからない時間に降りて、彼は、しばらく街灯を眺めていた。
街灯自体の音が聞こえるくらい静かなそこは、降りてみたところで、何処だかわからない。
iPhoneを、取り出す気にはなれなかった。
ナニカにつながることに、どうにも気が進まなかったのだ。

「代わり映えのしない明日ばっかりやってくる。
俺はもう死んでるんじゃないかと思うんだ。」

耳から聞こえたことに、彼は驚いた。
どうやら口にしていたようだ、そんな呟きを…
自分向けに苦笑いを繕うと、ポケットの煙草をまさぐった。

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