「なんだか堂々巡りの人生で嫌だからなんとかしたい、と思うなら無頼という生き方がある」
という言葉で本書は始まる。
「無頼」という言葉には馴染みが薄い。
それはなにか漫画やフィクションの主人公のキャッチコピーで使われるもので、現実の人間の生き方としての「無頼」というものがしっくりこない。
それもそのはずで、僕らは生きたサンプルとしての「無頼漢」に巡りあうチャンスがなかなかない。
だから、最後の無頼派といわれる伊集院静の語る言葉は貴重だ。
無頼とは?
ぶ‐らい【無頼】 [名・形動]
1 正業に就かず、無法な行いをすること。また、そのさまや、そのような人。「―な(の)輩(やから)」
2 頼みにするところのないこと。 「単孤―の独人になりて」〈十訓抄・二〉
情報源: 無頼(ブライ)とは – コトバンク
無頼漢とは、まっとうなコミュケーションがとれないめちゃくちゃな人!くらいのイメージしかなかった。
だから、文部省の定める教育を人並みにこなして社会に出た身としては、全く無縁なもの。
それは、目指すようなものではなかった。
しかし、著者の定義では、心の持ち方、生きる姿勢であるという。
頼るものなし
無頼とは読んで字のごとく、「頼るものなし」という覚悟のことです。
いつも何かに寄りかかって、狭量さと不自由さがついて回る人生とは無縁なもの。
こう言われると、それこそがそうありたいと願うものと腹に落ちる。
体を壊すまで酒を飲みたいとも、ギャンブルに全てを捧げようとも、1ミリも思わない。
しかし、何にも頼らずに生きていきたいと、心底思う。
それは、これまで誰かに助けられ支えられ、どうにかこうにか生き恥を晒しながら、僕が今ココに存在していることに気づいたからだろう。
しかしそうするためには、著者のような特別な強さを持つ個人でなければ成し得ないのではないか?という疑問がわく。
だが、著者は自分自身の弱さをとことん知っておくことが無頼の大前提だという。
「俺は救いようのないダメな人間だ。世の中で一番の怠け者かもしれない」
ここから動き出すのだと。
大人になるということは
自分の正体がわかってくるということに他ならない。
「どうやら俺の正体はこの辺らしいな」と。
そして、自分の正体がわかれば、必要以上のものを求めなくなり、欲が減って楽に生きられる。
ただし、そこに至る手軽な近道はないけどね。
そうして、夏目雅子の死で理解しなければならなかったことについても語られる。
愛する人の死をもってそれを理解しなければならないのなら、それは随分哀しいことだという苦味とともに…
頼ったり頼られたりして人は生きていくと僕は教わってきた。
しかし、実際は誰かに、何かによっかかり、誰かに使われて生きている。
そうしてそれを繰り返しながら、脆弱な自分の正体というものを嫌というほど突きつけられる。
そうした時に書店で目が合うのも必然というものなのだろう。
色川武大が言う「先行有利」とは程遠い状況で、自分のクセはわかるがフォームができているかどうかわわからない状況で、起こりにくい逆転劇を起こせるだろうか。
そう、本書では、運や流れについても語られている。
それが色濃く左右するギャンブルの観点からも。
運があるかどうかは結果論だ。
やらなければわからない。
そうしていよいよ立っていられなくなったなら、運がなかったねと笑うしかないのだろう。
そうして最後の時に、著者が言うとおり、自分の中の宿縁とか業とか罪とかを全て自分で打ち止めにする覚悟で引き受けてしまえばいいのだろう。
そう腹を括ってしまえば、このどうしようもない脆弱な自分とも、もうしばらくは立っていられそうだ。
本書には、自己啓発本の口当たりの良い浮かれた熱狂はない。
あるのは、突き放された苦く重たい言葉だけだ。
そうした言葉に触れたいお方には、強くお勧めする。