変化することが必ずしも善だとは思わない。
変わらないことの良さもあるはずだ。
ただ、変わらないことには、澱みが生じることもある。
もっとも、その澱みも安定している世界に異分子が混じり込むことにより生まれる。
調和が取れている中に、ちょっと違和感を持つものが入り込んでくる。
時が経つにつれ、最初に感じた違和感が杞憂に過ぎなかったと思い始めた頃、その違和感は実力を発揮し始める。
そうしてそれは、それまでの調和を澱みに変えてしまう。
それが劣化なのか、変化なのかは、僕には判別できない。
ただ、空気が澱んでしまったことを肌が感じとるようになる。
そうなれば、空気を入れ換えねばならない。
いや、正確に表現するならば、その空気が充満する場所を捨てねばならない。
変化することが必ずしも善だとは思わないが、変化をする必要に迫られることになる。
そうして僕は、条件反射的に靴を捨てる。
服も捨てる。
もちろん、全てではないが、時間が経ち過ぎたもの、OLD SCHOOLな表現を用いれば、履きふるした靴、よれたTシャツ、登板回数を重ねた靴下、それらを一切合切捨ててしまう。
そうして、タバコの銘柄も全く毛色の違うものに変えてしまった。
だって、それはダイレクトにカラダが吸い込むものだから。
丁寧に掃除機をかけ、丁寧に風呂を掃除し、そのあとは空気の良い場所へ向かうことになる。
そんな時に、無選択で僕の足が向かうのは神社だ。
スピリチュアルなことはわからないが、神社は緑が多く、風が吹き抜けている。
僕が纏った澱んだ空気を吹き飛ばしてくれる感覚がある。
逆方向の神社
さらに今回は、初めての神社に行くことにした。
ここ数年の行きつけを、行きつけであるからという理由だけで変えたかったのだ。
Mapを見ると、わざわざ電車に乗らずとも歩いて行けるところに由緒正しい神社が存在していた。
これまで行っていたところは、しょっちゅうテレビ番組に登場し、バリエーション豊富な授与品を自前のInstagramアカウントで紹介していた。
もちろんそれは悪いことじゃない。
人が気分を良くするために行きたいところが、経済的な事情でなくなってしまうのは切ない。
だから潤っていてほしい。
今回初めて参拝した神社は、その真逆だ。
境内の撮影は、事前の許可がなければ禁じられている。
HPも持ってはいるが、Facebookまでの対応が精一杯のようだ。
授与品にしたって、指折り数えられるほどの種類しかない。
いわゆる吉日に参拝させていただいたのだが、人の賑わいというものはない。
並ぶという行為は存在しなかった。
ただ、ただ、参拝客は途切れない。
ポツポツと程よい間隔を置いて人がやってくる。
境内では、ボーイスカウトの制服と父兄と思しき人たちが何かの行事の準備をしていた。
それとてイベントの派手な匂いはなく、あくまで身内の行事のようだった。
これまでの行きつけと真反対の商売っけのなさ。
しかし、地元の人々の生活にしっかり根付き、Instagramのチカラで遠方の客を呼び込む必要など微塵も感じていない様子だ。
創建から数百年という歴史のせいで拝殿には年季を感じるが、劣化しているわけではない。
清々しい空気に満ち満ちている。
ああ、そうだ。
この清々しい空気を浴びたくて、吸い込みたくて、僕はやってきたのだと実感する。
帰りしな、本来の参道は、とてつもなく長いものだったことに気づく。
歴史が長過ぎて、参道の脇には住宅が建ち並んでしまい、行く時には、それが本来は参道だったと気づいていなかったのだ。
家から最寄りの駅に向かう方向には足が向くが、その逆方向には、あまり踏み出すことはなかった。
この神社は、その逆方向に位置していたのだ。
だから、近くに川が流れていることも、この日初めて知った。
いや、知ってはいたのかもしれない。
ただ、お目にかかるのは初めてだった。
つがいの神使
参拝の後、ふと川に目をやると、ずいぶん立派な鴨がいた。
あまり大きいとは言えない川に、その立派な鴨はつがいで浮いている。
Geiminiに聞けば、参拝直後に鳥に遭遇するのは、非常に縁起がいいらしい。
神社への参拝帰りに鴨(カモ)を見かけるというのは、非常に縁起が良いサインとされています。
日本の八百万の神々の世界において、鳥は「神様のお使い(神使)」と考えられており、特に参拝の直後に遭遇するのは、**「あなたの願いが届いた」「神様に歓迎された」**というメッセージであることが多いです。
鴨が持つスピリチュアルな意味をいくつか紐解いてみましょう。
だが、それは後で知ったことだ。
遭遇した直後の僕は、ずいぶん立派で綺麗な鴨の姿に、しばらく見惚れていただけだったのだ。
そう、清々しい空気の中、心地よく流れる水音に、ただ身を委ねて…
