僕らは銃撃による会話というものを、はじめて目にすることになった。
撃つ方は、撃つ部位で相手に意図を伝え、撃たれた方は撃たれた部位で正確にその意図を把握する。
撃ったのはメアリー・ワトソンで、撃たれたのは夫の無二の親友シャーロック・ホームズである。
彼女は撃つことでシャーロックに依頼をかけ、彼は撃たれたことで依頼を引き受けた。
メアリー・ワトソン(仮名)
メアリーが、ただの看護師とは思えない場面はいくつかあった。
ジョン・ワトソンを誘拐した犯人からのメールに、即座に暗号だと気づきシャーロックに伝えるなんて芸当は、気が利く女の度合いをはるかに越している。
だから心配は、彼女が敵対勢力の回し者なのかという一点だけだった。
それは、杞憂に終わった。
しかし、彼女のプロフィールは、想像をはるかに超えていた。
なぜ四文字言葉で呼ばれないのか?と不思議がられる組織に属し、様々なオペレーションに参加。 その後もフリーランスで汚れ仕事を請け負った。
メアリー・モースタンとして陽の当たる場所に出てきた彼女に影を落とすのは、マグヌセンと彼が保持する情報。
シャーロックの唯一の弱みであるジョン・ワトソン。
そのジョンが守るべき存在であるメアリー。
こうしてマグヌセンにとって重要度の上がったメアリーは、現在のメアリー・ワトソンとしての人生を守るために、彼の抹殺を決意する。
しかし、その決行場面にたまたま出くわしたベーカー街のコンビに嫌疑がかかることを恐れたメアリーは、それを遂行せず、シャーロックにその意図を伝える。
それも銃撃という特殊なコミュニケーションで。
メアリーが守りたいものは、自分一人だけの暮らしではなかったのだ。
ジョン・ワトソンという寛容
妻としてではなく、依頼人として扱い、経緯を聞くジョン。
親友が自分に2年間もその生存を隠していたという事実と同等、あるいはそれ以上に、このまっすぐな男は傷つき反応する。
しかし彼は、今ここにいる二人に救われているのだ。
退役後の無為な日常から引きずり出してくれたシャーロック。
そのシャーロックを失った失意の日々から引っ張りあげてくれたメアリー。
いつだって彼は、自らの恩人に対して寛容だ。
だから彼は、メアリーに対する反応を灰にする。
その過去を記録しているUSBメモリーとともに。
シャーロック・ホームズという無垢な独善
久しぶりにベーカー街に戻ってきた男は、これまでとは様子が違っていた。
友達などおらず、人の心などわからないと明言していた男は、本当に死んでしまったようだ。
自らの生存を伝えていなかった男との再会では、その罪悪感から、変装までして口にしたことがないであろう慣れないジョークでおどけてみせた。
世間が親友と認める男の誕生パーティーをウソの口実で欠席した彼は、ベストマンという結婚式の大役から逃げることはなかった。
そして彼は、親友が最も大切にするもののために、躊躇なく引き金を引く。
マイクロフトの持つ国家機密を持ちだしてまでマグヌセンをおびき出すシャーロック。
彼の天秤は確かに社会に適合していないが、その秤は無垢そのものだ。
メアリーとその夫を守るため、情報の在処を確認し廃棄するよりほかに重要なものなど、今は存在していないのだ。
マグヌセンはシャーロックと同じ方法を使っていた。
自分の頭の中の「精神の宮殿」と呼ばれる場所に全ての情報を暗記保存していたのだ。
確認したシャーロックには、なんのためらいもない。
一切の交渉も取引も持ち出すことなく、マグヌセンの頭に向けて引き金を引く。
彼にとっては、殺人ですらないだろう。
親友ジョンとその妻を守るための、情報の永久廃棄に過ぎない。
シャーロックがマグヌセンの存在自体をそもそも許せなかったという土台があるにしても、今回の行為は、無垢な善意によるものだ。
社会不適合者の独善は、時に、社会全体にも必要な場合がある。
マイクロフトと英国政府は、常々ジョンが示すように、その寛容性をシャーロックに示してくれた。
#sherlocklives means #marywatsonlives
こうして、メアリー・ワトソンは、メアリー・ワトソン以外の女ではなくなった。
ジョン・ワトソンの妻であり、これから生まれてくるであろうジョン・ワトソンの娘の母親であるという女以外には。
「シャーロックが生きているということは、ジョン・ワトソンも生きているということだ」とジョンは言った。
そしてまた、シャーロックが生きていたことによって、メアリー・ワトソンという女も新たな生を受けたのだ。