「ガス人間第1号」観た人のためのレビュー:こぼれ落ちる個人の物語

Netflixで配信が始まったガス人間を一気見してしまった僕は、さらに原典のガス人間㐧1号まで視聴してしまった。
リメイク版は、1960年に製作された原典とは、当たり前だが、全く別のお話だ。

リメイク版は、ヒトの形をしたガスを取り巻く物語。
だが、原典は、ガスになってしまったヒトの物語だった。

ガス人間第1号

ガス人間・水野

Netflix版のガス人間は、ヒトのカタチをしたガスの物語であった。
そこには、もはやレンおじさんの成分は含まれていない。
ココロのないまま存在だけ続けてしまう、コマンドで操られるだけの存在に成り果ててしまったことは、それはそれで悲劇であったが…

原典のガス人間・水野は、ガスになることもできる人間である。
だから彼は、図書館に勤務して日常生活も送っている。
コトを及ぶにあたってガスの姿に変化するのだ。

だが、共通しているのは、この社会で順風に生きていけていないことだ。
ガス人間・水野は、Netflix版のように「人間燃料」と切り分けられている存在ではない。
そもそも1960年の日本では、まだカースト化が確立してはいなかった。

しかし、大学に進学することが叶わず、航空自衛隊でパイロットになることで身を立てようと思ったものの、身体検査で合格することができなかった。
劣等感を抱えたまま、展望が持てないまま、日々をやり過ごしているだけの男だった。

Netflix版においても、原典においても、共通しているのは、佐野博士のクソッタレぶりだ。
人を人とも思わない驕った科学者が、何番目かの実験台として、水野という男に甘く囁いた。
そうして彼は、佐野博士にとっても計算外の未知のガス人間になってしまう。

藤千代

藤千代は、社会カーストの上位に位置している存在だった。
いや、正確に表現すれば、彼女が生まれた家が日本舞踊春日流家元という押しも押されぬ名家だった。

だが、先代が亡くなって以降、没落がとまらない。
弟子たちは離れて独立し、発表会を行うための資金すらままならない。

だから彼女にとって、田舎の田畑を売り飛ばした金だと言って寄付を持ちかけてくれたガス人間・水野は救世主以上の存在だった。
程なくして、それが、ガス人間・水野が銀行強盗によって得た金だと彼女は知ることになる。

それでも、発表会は決行すると決めたとき、彼女は、覚悟は決めていたはずだ。
それが、最後の発表会となることを。
そんな金だとわかっていても、それがなければ生きられない自分という存在を終わりにしなければならない最後の舞台になることも…

水野は、その先を夢見ていたのだろうか。
藤千代を抱きしめたその先を…

こぼれ落ちる個人の物語

Netflix版のVFXによるガス人間の変身シーンも圧巻だった。
だが、原典の円谷プロによる特撮も味がある。
なんというか、そのガスに人間の質感が感じられるというか…

Netflix版では、カースト化が進んだ現在においての切り捨てられた階層という構造の物語だった。
だが、原典は、1960年のカースト化が確立していない時代の、社会からこぼれ落ちてしまう個人の物語だと言えるだろう。
階層ではなく、個人の作り出す影の方が濃く見えるのは、僕だけだろうか…

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