あなたの「コダワリ」話してください!
というスピーチを依頼され、「僕のコダワリはこれだ!」と言えるものが全くないことに気づいた。
まあ、なにかに傑出したプロフェッショナルとはいえないので、当然といえば当然だが。。。
それならばと、そもそも「コダワリ」とはなんなのかを調べてみることにした。
①心が何かにとらわれて,自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。 「金に-・る人」 「済んだことにいつまでも-・るな」
②普通は軽視されがちなことにまで好みを主張する。 「ビールの銘柄に-・る」
③物事がとどこおる。障る。 「脇差の鍔(つば)が横つ腹へ-・つていてえのだ/滑稽本・膝栗毛 6」
④他人からの働きかけをこばむ。なんくせをつける。 「達ておいとまを願ひ給へ共,郡司師高-・つて埒明けず/浄瑠璃・娥哥がるた」
引用元: こだわる とは – コトバンク.
仏教において、事物に固執し、とらわれること。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。
引用元: 執着 – Wikipedia.
調べてみると、驚くことにポジティブな表現としての要素はまったく見当たらない。
そういえば、昔、「そんな小さなことにこだわるな!」と叱られたことがあった。
本来は「こだわること」は良くないことで、「こだわらない」ことのほうが良しとされていたはず。
いつから肯定的な意味合いで使われるようになったんだろう?
「コダワリ」という言葉がよく使われるのは、料理や食材のキャッチコピーだ。
だとすると、美味しんぼ等のグルメブームくらいからポジティブに使われるようになったのだろうか。
「一流の材料にこだわって作った料理」
「頑固親父のこだわりラーメン」
みたいな使い方。
しかし、そうした「コダワリ」が昨今の食品偽装の問題を生んでいるのも皮肉な話だ。
「前沢牛」が本当は「山形牛」だったなんてホントはどうでもいい話。
しかしそのどうでもいい些細な事にこだわって本質を見失った結果、本当に大切なモノを失ってしまった。
「鳴かぬなら〜」のホトトギスの句も、人物のある種のこだわりを表現するものかもしれない。 そして、松下幸之助もホトトギスの句を詠んでいる。
「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」
ホトトギスは鳴くだろうという前提を捨てる。
真実を見抜くには、何事も前提を置かずに望むことが肝要。
これまで身につけたあらゆるものから脱却した「なにものにもとらわれない強い心」が大切である。
と松下幸之助は説いている。
アインシュタインも「とらわれないこと」について、こう語っている。
常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。
世間様の顔色や、なんとなくこうだろうという常識、重要ではないものに固執するココロ。
こうしたもので、物事を捉え、考え、はたまた人に押し付ける。
「僕のコダワリは〜」等と自慢話のキッカケでしか役に立たない。
そんな「コダワリ」なんぞ、この世から消滅させてしまえばいい。
必要なのは、「なにものにもとらわれない自由で強い心」だ。
「それもまたよし」というフラットなココロ。
そして、「僕のコダワリは〜」と囀るホトトギスにも「それもまたよし」と動じないココロ。
そうした強さが身についたなら、これ以上本当に大切なモノを失わずに済むんじゃなかろうか。。。