朝日新聞の購読をついにやめることに決定。
まあ直接の引き金は例の「アレ」だ。
そして例の「アレ」の事後処理が決定づけた。
子会社のテレビ屋さんもグループ活動に勤しんで、報道機関の体をなさない状態になっている。
本来的な意味での報道機関が、そもそも存在していたのかどうかも不明だし、それが存在していないことに今回気づいただけかもしれないが。
そもそも朝日新聞に僕自身がこだわりがあって購読しているわけではない。
家族がその4コマ漫画を気に入っていただけ。
アレコレの新聞を読み比べて、その扱いと論調と無視具合を比較するようなリテラシーは持ちあわせちゃいない。
「まともな社会人なら日経新聞を読むんだぜ」
と、まだ電話が電話の機能しか持たない頃に教わった。
日経新聞を読み解くあの特別なスキルが身につかないながらも、だらだらと購読は続けていた。
しかし、2紙も新聞を購読していると、物理的にごちゃごちゃしてくる。
そういうわけで電子版に切り替えた。
しかしディスプレイでニュースを見る習慣がつくと、日経のサイトはシカトされるようになってきた。
飛び込んでくるTwitterの情報のほうが早く、関連情報をググっているうちに、新聞というパッケージを読み込む時間と労力は尽き果てる。
今回、朝日新聞の購読をやめて、次の新聞を検討するうちに、新聞というパッケージが必要なのかという疑問がわく。
報道の自由と報道しない自由を性悪女みたいに使い分け、決まったパッケージで、決まった時間に、広告主の意に沿うように届けられる紙の束。
即時性はだいぶ低くなり、深みも見られず、ヘタするとネットの情報をリブログしてるだけのもの。
そんなものが、この先も必要なのだろうか?
報道機関は必要だが、新聞紙というモノの存在は、その内容と比例するように軽くなっていく。
ガラケーが指に馴染んでいるからスマホに変えられないという理由と同じように、あのパッケージの何面から読むという習慣が身についた世代にはしばらく必要なのだろう。
しかし、僕には不可欠ではない。
スマホやタブレットの普及で、様々なサイトが適したカタチにリデザインされていく。
あの画面サイズは、ニュースという一口大のものを切り取るには最適だ。
もう、新聞やーめた!
でいいのかもしれない。
あとは、いっぱしの社会人が新聞をとっていませんと世間様に言えるかどうかという、伝統的価値観と折り合いをつけるだけだ…