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機動戦士ガンダムUC 見た人のためのレビュー(3)「赤い器」

フル・フロンタルは、シャア・アズナブルその人ではなかった。
シャアに似せて作り上げられたその男は、自らを器だと自嘲した。
しかし、シャア自身も、その名前すらも偽名だが、器として役割を演じ続けた男であった。

キャスバルの名前を捨てた男は、「赤い彗星」という役割を演じ続けることでその身の安全を確固たるものとした。
素性に気づいたザビ家ですら、おいそれと手を出せない大戦の英雄。
終戦後は、ジオン再興のアイコンとして人々の望む姿を演じてみせた。
ネオ・ジオン総帥の衣装に「これでは道化だ」と自嘲する姿は抗うことの出来ない本心だろう。

復讐のために始まったシャア・アズナブルとしての人生は、ある時大きな転機を迎える。
ララァ・スンという少女との出会い。
ニュータイプに初めて遭遇した彼は、父ジオン・ダイクンの唱えたニュータイプによってもたらされる人類の革新を垣間見ることになる。
それを目にした彼は、人類の革新を実現することを最大の望みとするようになる。
ザビ家への復讐など、もう些細なことだ。

人類の革新という熱い理想を持っていることが、シャアとフル・フロンタルを分け隔てるポイントだ。
フル・フロンタルは、お題目を唱えるだけの空っぽの器だ。
戦闘力はシャアと同等ながらも、目の前の状況をこなすだけ。
サイド共栄圏構想などに、革新の熱さは微塵も感じられない。

シャアは、大願成就のためには、手段も器も選ばない。
クワトロ・バジーナという器を選んだときには、かつての宿敵ホワイトベースのクルーとの共闘もいとわなかった。
ジオン・ダイクンの息子という器を世にさらけ出してでも革新を遂げようとして挫折した彼は、最後に違う選択肢を選ぶ。
地球に小惑星を落とし、全人類を強制的に宇宙に上げることによって、力づくの革新を行おうというのだ。
ジオンの再興などどうでもいい。
それは、この目的を果たすためにコチラが利用している器にすぎない。
しかし、いかに独善的なシャアであろうとも、ためらいはあった。
そこで彼は選択は天に委ねることにした。
おそらくアムロがまた壁となって立ちはだかるであろう、これまでのように。
しかし、アムロをもってしてもあの性能しか発揮できないモビルスーツでは、結果は見えている。
せめて同等以上のチカラを発揮してもらわねば、天に委ねることにならない。
そうして彼は、サイコフレームの情報をリークさせた。
せいぜいサイコミュを増幅させて性能を向上させる程度の認識だった。
それが、あの奇跡以外には表現できない現象を引き起こすとは。
シャアには、あの虹色の光が誰から放たれていたのか最後までわからなかった。
アムロのようでもあり、人類すべての善意のようでもあった。
確かだったのは、そのあたたかさだけだ。
しかし、それはいい。
この奇跡によって、人類の可能性は開かれた。
自らの行動は、人類の革新を推し進めたはずだ。

光となってしまったアムロと別れたシャアは、虚無の深淵に沈んでいる。
おかしい。
あの奇跡を現実に目にした人類は、これまでと一切変わらないままでいる。
あの虹色の光を目にしても、あのあたたかさを肌で感じても、自らの可能性を開こうとしていない。
アムロが見せた人の心の光は、一瞬の閃光に過ぎないというのか。
それならば、いっそその可能性を取り上げてしまえばいい。
どうせ人類は、その可能性に蓋をしたまま、この漆黒の虚無をむかえるのだ。
自らに似せて作られた空っぽの器を使い、あのバナージとかいう少年に、この虚無を味あわせるのだ。
人の可能性を信じて裏切られる絶望を味わってみるといい。
この私のように。
…またあの虹色の光だ。
そう。奇跡は何度でも起きる。
そして何も変わらない。
それでも!と叫び続ける少年は、あたたかな光を放つことをやめない。
あきらめるどころか、その光はますます強くなっていく。

ララァの言うとおりだ。
もう潮時かもしれない。
もう可能性を持つ若者に委ねる時かもしれない。
気づけば、漆黒の中ではなく光の中にいた。
微笑むララァの向こうから「もういいのか?」とアムロが声をかける。
二人の穏やかな声は、その全てを見通していたようだった。

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