もし変換という作業がなければ、僕らの生活ももう少し楽だったかもしれない。
辞書の出来に左右されながら、登録されていない新しい語句に舌打ちしながら、スペースキーを押し続け、スワイプを繰り返す。
ちょっと前なら、必ず日本語入力プログラムを有償でインストールしなければ、PCとの最低限のコミュニケーションさえままならなかった。
そうした手間とフラストレーションに無縁の英語圏の人達が、うらやましかったりもする。
打ったのものがそのまま表示される言語の人たち。
そして打ったものが表示されるまでにワンアクションが必要な日本人の僕ら。
アルファベットで並べられたキーをローマ字に置き換えて、さらにそいつをひらがなか、カタカナか、意中の漢字に置き換えて、なんだったらアルファベットも交えながら作業する。
それはもう、入力というより編集という作業に近いのかもしれない。
直接的に表現する手前に、どうしても編集という落ち着いた作業が介在する。
それは、手書きでも同様だ。
アルファベットをつなげていくだけの人たちと違い、僕らは手書きでも、どの文字種を使うかを考えながら書きなぐる。
こうなると、テキストを打つ、文字を書くという行為が、日本語を操る僕らとそうではない人たちの間で、同じ行為といえるのかと考える。
確かに日本語以外でも、文章の構成を考えながら入力するという点で、追加作業は必要だ。
しかし、「私は〜」は「 I 」であり、「わたしは〜」、「ワタシは〜」、「アタシは〜」、「わたくしは〜」、「俺は〜」、「僕は〜」のどれを選択するかに立ち止まることなどないだろう。
だが、こうして変換してあげることが、受け手にとっては親切であるのかもしれない。
これは「私の話」なのか、「僕の話」なのか、「俺の話」なのか、はたまた「アタシの話」なのか。
それを事前に編集して伝えることで、受け手のモード選択を容易にし負担を和らげる。
天気を読むより、まずは空気を読まなければならないこの島国では、こうした事前編集は欠かせないのかもしれない。
そうしたメンタリティの土壌で変換が必要になったのか、切り離せない変換作業にメンタリティが育まれたのかはわからないが、いずれにせよ僕らの生活に変換は根深く結びついている。
僕らは、日々のコミュニケーションでも相手の語句を変換し、その真意を理解する。
言わずもがなの余白を読み取り、言葉に変換できない思いを受け止める。
かつて夏目漱石が、「I love you」を「月が綺麗ですね」と変換したように。