独白

ドーナツの穴が証明するカタチ

ドーナツは、真ん中に穴が空いてるからドーナツだと認識される。
真ん中の穴は、ドーナツの生地に囲まれているから、そこが空っぽだと認識される。

ブログを書き続けてみると、つくづく自分が空っぽだなぁと痛感する。
覚悟を決めて、自分の中に潜り込んでみても、そこには何も見つけられない。
何かあるはずだと思い込んで握りしめていた宝の地図は、どうやら真っ赤な偽物だったようだ。
もっともそれを掴ませたのは、自分自身ではあるのだが…

こうして書いてみるまでは、自分がこれほど空っぽだと感じたことはなかった。
その意味においては、ブログを書いてみるということは、本当に有用だったと言えるだろう。
自分が何者かを知る。
いや、自分が何者でもないことを知る。
その限りにおいては。

ブログは、僕にとってはドーナツのようなものかもしれない。
それを書くことで、自分の中心に居座っている「空白」が明らかになる。
書いていなければ、それはただの「無」に過ぎない。
認知することも不可能だ。

書いていることで、まわりをドーナツの生地が囲ってくれることで、はじめて真ん中に「空白」を抱えた男として認知することができる。
自分からも、あるいは他人からも。

ドーナツと真ん中の穴が、お互いの存在を証明するために不可欠であるように、このブログと僕もお互いの存在を証明している。

ただその証明は、「無」という存在が「空白」という認識できるカタチになったにすぎないのだけれど…

 

コメントを残す