見栄っ張りで流行りものに弱い兄の終の棲家は、スカイツリーが程よく見える場所にあった。
そこからは、スカイツリーが小さすぎず、かといって大きすぎることもなく、本当に程よくスカイツリーを眺めることが出来る。
旬なものを外すことない、まったく兄らしい選択。
モロモロの整理に訪れるまで、僕はそこを訪問したことはなく、住所地番だけは知っていた。
だから、あの人にしては随分と地味な場所に引っ越したものだと思っていたが、行ってみて、最後まであの人らしい選択をしていたのだとはじめて納得した。
本当に近い家族だけで葬儀とも呼べないほどシンプルに見送って数日経ってから、兄のごく近い友人たちが、焼香に来てくれた。
一人暮らしの手狭な部屋では、焼香も出たり入ったりのローテーション方式。
ゴールデンウィークの税関のような慌ただしさが、ひととおり落ち着くと、もてなしのために線香の立ち込める部屋を後にした。
十数人が入れる店を探し、近所を散策してみると、スカイツリーが程よく拝めるその町は、どこかで誰かが防波堤でも築いたようにブームの波は来ていなかった。
土曜の午後というのに人波は見られず、立ち並ぶ店は昔一回こっきりしただけのお化粧を、どんなに傷んでもいじる素振りは見られない。
あっちこっちの暖簾をくぐると、予想外の大人数の来店に、皆一様に驚いて「夕方からなら大丈夫なんですけど…」、「今日じゃなければねぇ…今日ですか?」と未練たらたらながら断らざるを得ない様子。
そんなやりとりを何度か繰り返したあとに、色気なんかとっくの昔に忘れてしまった素っ気ない佇まいの寿司屋の暖簾をくぐった。
人数の確認し、満面の笑みとデッドストックの愛嬌をふりまいて「どうぞ!どうぞ!」と喜ぶおばあちゃまと、「あ、あるものしかできないよ!」と慌てる板前さん。
2種類の温度に迎えられて、ともかく僕らはようやく腰を下ろすことが出来た。
とりあえずビールを頼むと、生かどうかも聞かれずに、銘柄さえも聞かれずに、黙ってキリンラガービールの瓶が自動的に並べられた。
懐かしい絵柄だが、ここんとこ店で生ビール以外を頼んだ記憶もなく、家で飲むにもこの瓶を下げて帰った記憶もない。
このビールには、最初にその苦さを教わったくらいで、美味いと思った記憶もない。
しかし、急に押しかけといてあーだこーだと贅沢も言えるわけもない。
「キリンラガーか…」とみな小声でつぶやいて、後はオートメーション化された工場ラインのように、あちこちで栓を抜き、儀礼的な押し問答の後、上下関係に基づいて見事にグラスが満たされていく。
「献杯!」のあと、飲み干したキリンラガーは、しかし、これまでの味わいとは違って感じられた。
いや、正確に言うならば、キリンラガーは昔と1ミリも変わっていないのだろう。
変わったのは、こちらの舌の方だった。
強い苦味と強い炭酸のパンチ、これは記憶と寸分たがわない。
しかし、そのあとの仄かな甘味を、オトナになった舌はすくいとれるようになっていた。
苦味に免疫のないガキの頃は、その強い苦味にヒーヒー騒いでいたけれど、ビールくらいじゃ驚かないほどあらゆる種類の苦味を経験した今は、その仄かな甘味を敏感にしっかりと見つけられるようになっている。
そうして、みな先程とは全く違う意味合いで「キリンラガーか…」と呟いた。
随分前にアチラに行った父も、晩酌でこのビールを飲んでいた。
なんでそんない苦いものをあえて嗜むのか、ガキの僕には全く理解できなかった。
しかし、今ならわかる。
押し付けではない仄かな甘味に、それは癒やされていた時間だったのだろう。
あっという間に空になっていくグラスと瓶。
次を頼むとやたらと時間がかかる。
息を荒らげたおばあちゃまが登場すると、その手には買ってそのままのポリ袋にぎっしりとキリンラガーの姿が見える。
どうやら、通常仕入れを超える量を飲んでしまっていたようだ。
そうしてグラスが空くたびに、誰かが兄の思い出話を始め、そして死を悼んだ。
そのたびに兄は生き返り、そしてまた死んだ。
そうして何度も死に直面するたびに、僕らはまたその感情を反芻する。
確かに、ボギーがいうように、二杯飲んだらさっさと世の中を通常に戻すほうが賢いのだろう。
悲しみの負債を残すのは、どんな死者でも望んでいないはずだ。
僕は、僕なら、存在していたことさえも忘れて欲しい。
僕にまつわる良い思い出しか存在しないわけがない。
良い思い出には、良くない思い出もまとわりついて離れない。
そうしてその比率は、あたかもキリンラガーのごとく、苦味が強すぎる。
だから、わずかな、仄かな甘味を味わうためだけにその苦味を乗り越えるのは荷が勝ちすぎる。
誰かの死に直面し、自分の死も考える。
そうしてずっと前に死者になった大先輩の父のことも思う。
うってつけのキリンラガーは、強い苦味と仄かな甘味を複雑に確実に味あわせてくれる。
「こんなときには、こいつを飲むのさ」と、先回りした父が用意してくれていたように思えた。