この先の身の振り方なんてえものを、いろんな人と話していると、「いやあ、なんでも出来そうだよね」とありがたいお言葉を頂戴する。
何やったってソコソコ上手くこなせるんじゃないかという評価は、しかし、ありがたいとばかりも言えない。
なんでもできるというやつは、なんにもできないやつの裏返し。
それは、誰にでも優しいと言われる男が、実は誰にも優しくないのと同じことだ。
能捨という言葉
そんなタイミングで、Tumblrのダッシュボードに「能捨」という言葉が流れ着いてきた。
印象深かったのが「能捨(のうしゃ)」という仏教用語です。それなりに優秀な人は、なにをやらせてもある程度のところまでいく。どんな分野に手を伸ばしても、一定以上の結果を出せる。でも、それだと「そこそこ」の結果で終わってしまう、もう一歩先に進みたかったら、なにかを捨てなきゃいけない。それが「能捨」だというんですね。
情報源: 『世界初をつくり続ける東大教授の「自分の壁」を越える授業』:紙魚:So-netブログ
上品とは言えない僕のTumblrのダッシュボードも、時折いいことを言う。
Evernoteよりも、はるかに僕の第二の脳というにふさわしいTumblrは、誰よりも僕のニーズをわかってくれているようだ。
何を捨てるか?=何を残すか?
という選択、決断をずっとおざなりにしてきたような気がする。
流れるままに、状況とソコソコの手打ちをして、気がついたらこんな見知らぬ場所に流れ着いてしまった。
選んでいないのだから、望まぬものに囲まれてもしょうがない。
しかし、ソコソコのグレードも、ひところからストップ安を更新中だ。
だから、このところは、いろんなものを捨て始めていた。
ふと正気に戻れば、必要だと思わされていた粗大ゴミを後生大事に抱えており、本当に大切なものは雨ざらしになっていた。
もうひとつ先に、もうひとつ深く、自分の人生にダイブするのなら、まだ捨てなければならないものがあるはずだ。
判断がつかないのなら、決断をしなければならない。
「しかし、旦那。もうたいがいのものは捨てちまって、これ以上捨てるものは見当たりやせんぜ。」と、つきあいの長い内なる声はささやく。
しかしまだ、ソコソコに手打ちしようとするココロそのものは、そこにある。
それが弱さと呼ばれるものか、大人の判断と名乗るものなのかを判断するには、僕は情弱すぎる。
しかし、それでも、いや、だからこそ、そいつを真っ先に放り投げなきゃいけないんだろう…