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0勝26敗のタンパベイ・バッカニアーズが築いたもの

26連敗というNFLのワースト記録を樹立してしまった新生チームが、いかに初勝利を手にしたのか。
当時を振り返るドキュメンタリーをNFL Filmsが公開している。
40分を超える映像は、一本の映画のような見応えがある。
抱腹絶倒の連続だが、彼らだからこそ築き上げられたモノは、確かにここに存在する。

From the Ground Up: How the 0-26 Buccaneers Built More than Just a Football Team

チーム創設からの26連敗

26連敗は、未だ破られることのないNFLのワースト記録だ。
しかも、1976年に誕生した新生チームは、0勝のまま26連敗を喫したのだ。

アメリカ4大スポーツにおいては、NBAのデトロイト・ピストンズが2023シーズンに28連敗の単独記録を樹立したことにより、そのワーストからは逃れることができた。
しかし、期間が違う。
試合数の多いバスケットボールにおいて、デトロイト・ピストンズが、その屈辱に耐えなければならならなかったのは、1シーズン中の2ヶ月に過ぎない。
しかし、レギュラーシーズンが14試合しかなかった当時のNFLにおいては、1シーズンを全敗し、さらにシーズンオフを挟んで翌年も12連敗したことになる。
その期間は、実に1年3ヶ月。

EXPANSION BOWL

土台、後から参加する新生チームが簡単に勝てるわけもない。
いつからか、America’s Teamと自称するようになったダラス・カウボーイズさえ、初年度は0勝11敗1引き分けというミゼラブルな成績だった。
あのトム・ランドリーがサイドラインに立っていたのにだ。

戦力均衡化を模索するNFLは、新生チームに追加のドラフト指名権を与えるとともに、他チームからのトレードも容認した。
しかし、ルールにより既存の各チームがプロテクトを外したのは、わずかに3名。
そんな選手は、ロートルか、あるいはロートルにも満たない戦力か。
いずれにせよ、翌年にはカット対象のリストに真っ先に上がる者たちばかりだった。

そうして、バッカニアーズは貴重なドラフト指名権を、そんな選手たちとのトレードに使ってしまう。
当時、カレッジでウィッシュボーン攻撃が大流行していたために、いわゆるプロタイプのQB キャンディデートが不足していたとはいえ…
あの世紀のハーシェル・ウォーカーのトレードとは、真逆の構図だ。
ジミー・ジョンソンなら喜んで全ての指名権を若いキャンディデートに行使していたはずだ。
カウボーイズが再生の道を歩んだのとは対照的に、バッカニアーズが選んでしまったのは、困難な船出だった。

シーズンは、無得点、2戦連続の完封負けで開幕した。
TDをあげるのは、4戦目まで待たなければならなかった。
フィールドで戦力差を肌で感じる選手たち。
しかし、コイツなら勝てると感じた試合があった。
第6週のシアトル・シーホークス戦だ。
彼らもエクスパンション同期。
同じ時期に生まれたルーキー球団だ。

だが、そのゲームさえも落としてしまった。
この年、2勝しかできなかったシーホークスに、貴重な1勝を献上してしまったのだ。

スラップスティックな日常

水も与えられぬプレシーズンの猛練習に、途中でトイレに行くと言って、そのまま空港まで向かって、2度と戻ってこなかった選手。
経費をケチって選んだエアラインの恐怖。
開幕戦では、ロッカールームからフィールドに出るまで20分以上も迷子になった話。
極め付けは、敗戦に一刻も早くスタジアムを離れたかったジョン・マッケイが、オーナーであるヒュー・カルバーハウス夫妻を置き去りのまま、バスを発車させてしまったことだろう。

だが、ジョン・マッケイが激昂するのも無理はない。
対戦相手だったデンバー・ブロンコスのHC ジョン・ラルストンは、もともとスタンフォード大学のHCだった。
おんなじPAC10で、USC時代のジョン・マッケイに蹂躙された過去を持つ彼は、ここぞとばかりに復讐を果たし、もう勝負がついてる終盤にリバースプレイまでコールして得点を重ねようとしたのだ。

ジョン・マッケイ

そう、HCとなったジョン・マッケイは、カレッジで全米を蹂躙していたのだ。
いかにリクルートに制限のなかった時代の、あのUSCを率いたとはいえ、4度もナショナルチャンピオンに輝いているのだ。
かのトロージャンズのお膝元には、彼の銅像さえ建立されている。

だが、NFLでは、カレッジのようには行かなかった。
最高の選手をリクルートできていたUSC時代とは違い、今抱えているのはリーグ最低の選手たち。
O.J.シンプソンも、それを導く強力なOLもいない。
Student Body Rightとコールしておけば、易々とエンドゾーンにボールが運び込まれた、あの頃とは違うのだ。

ランヘビーなジョン・マッケイとパス攻撃を主張するQB スティーブ・スパリアには確執が生まれ、しょぼいミスと相まって、オフェンスには、一向に明るい兆しは見られなかった。

この経験がコーチを志す動機となったと語るスティーブ・スパリアは、のちに、バーチカルパスを前面に押し出したFun ‘n’ Gun攻撃で全米に名前を轟かせ、フロリダ大学のHCとしてナショナルチャンピオンに輝いた。
だが、その彼も、鳴り物入りで迎えられたワシントン・レッドスキンズでは花開くことはなかった。

STOP THE ウォルター・ペイトン

苦戦を続けるオフェンスに比べてディフェンスは健闘していた。
そのひとつの結実が初勝利の1週間前に生まれた。

第12週、タンパ・スタジアムに乗り込んできたシカゴ・ベアーズには、傑出したRB ウォルター・ペイトンがいた。
なんと、バッカニアーズ守備陣は、1977シーズンにおいては、どのRBにも100ヤード以上走らせてはいなかった。
このゲームでウォルター・ペイトンが記録したのは、101ヤード。
だが、33回もキャリーした上でだ。
最長の19ヤードを差し引けば、それ以外は平均2.56ヤードに封じ込められている。
明らかにフラストレーションを蓄積させる表情に、スィートネスの面影はない

一方でバッカニアーズのRB リッキー・ベルは25回のキャリーで94ヤードを稼いでいる。
平均は3.76ヤードと、なんとウォルター・ペイトンに競り勝っているのだ。
第3Qまで完封されていたベアーズは、第4Qにようやく10点を挙げて、勝利にこぎつけたのだ。

1977年12月11日 @ニューオーリンズ

そうしてついに、その瞬間は訪れる。
充満していた爆発寸前のガソリンに火をつけたものがいるのだ。
それは、当時、ニューオーリンズ・セインツのQBだったアーチー・マニングだ。

「あんなチームに負けるなんて恥でしかない」

その発言が放たれたタイミングは最適だった。
俺たちでもやれると自信を持ち始めたディフェンス。
その姿に勇気づけられ、俺たちもやろうと活性化したオフェンス。
揮発性でなくなったチームワークに、長い年月勝てていないフラストレーションと勝利への渇望。
これらが混然となって、いつ爆発してもおかしくない状況に、迂闊に火を放った男が現れたのだから。

アーチー・マニングが放ったのは、間違った発言だけではない。
間違ったパスも放った彼は、6INTを食らった。
しかも、そのうちの3つが直接TDとなる。
だが、致し方ない。
彼は、5サックも浴びているのだから。
結果的に、彼のパサーレイティングは、60.5を記録する。

大爆発のディフェンスを背に、冷静にゲームをコントロールしたバッカニアーズ QB ゲイリー・ハフは、効果的にパスを投じて、パサーレイティングは、なんと148.1を記録している。

乱痴気騒ぎの後の光景

こうして帰りの飛行機の中は、乱痴気騒ぎのパーティー会場と化す。
75分しかなかったフライト時間のために、着陸を遅らせようという声が上がったほどだ。

そうして、冷静な機長のアナウンスが流れる。
「皆様、当機はまもなく着陸いたします。窓の外をご覧ください。」

機内は静まり返った。
そこには、歓声を上げて、我らがチームを出迎えるファンの姿が、いや、群衆がいたからだ。

まだ高速道路の整備されていない頃、はるか遠くの街からクルマで数時間もかけて集まったファンの数は実に1万人。
時刻は、深夜23時15分だ。
今でも、今でも、その時の光景をありありと語るバッカニアたちの表情を表現する言葉を僕は知らない。
星取表なんて知ったことじゃない。
このとき、彼らは確実に勝ったのだ。

そうしてタンパベイというフランチャイズが初めて誕生した。
ふたつの独立した大都市からなるタンパベイというエリアは分断されていた。
だから、当初は、切り離して、タンパ・バッカニアーズとなるプランが主流だったのだ。


それが今、こうしてひとつになっている。
バッカニアーズというチームを真ん中にして、タンパベイというフランチャイズが有機的に結合したのだ。
負け続けて、ようやく勝利をつかんだ、1年3ヶ月もの時間と道程が、長く分断されていた街同士を結びつけたのだろう。

こうして翌週のホームでの最終戦で、チームは、6万5千人の観衆からスタンディングオベーションで迎えられる。
2戦連続の勝利。
その2チームとものHCを立て続けにクビにしたのは、唯一、バッカニアーズだけじゃないだろうか。
もちろん、それはスタッツには残らないだろうが…

1979 FROM WORST TO FIRST

そこから2年後、バッカニアーズは、見事、地区優勝を遂げる。
NFCチャンピオンシップで敗れていなければ、スーパーボウルに出場できていたのだが…
そうして、その中には、あの26連敗を経験した23人の選手たちがいた。

あらためてジョン・マッケイ

僕は、これまで彼のことをよく知らなかった。
ジョー・ギブスが部下としてついて、あんなに笑わせてもらっことはないと評するコーチってどんな人物だったんだろう。
彼は、NFL100年のグレートキャラクターとして37位にランクインしている。

タンパベイ・バッカニアーズ 50周年に1976 Creamsicle ユニフォームを復活 | ALOG

USCを辞め、タンパに来て、わずか1週間で後悔したと言われている。
しかし、彼は途中で投げ出さなかった。
他のNFLチームはともかく、カレッジフットボールでは引く手数多だったろう。
そちらで、成功の焼き直しをする選択もあったはずだが…

彼でなければ、この苦境を乗りきることはできなかったのではないだろうか。
ウィットとユーモアは、苦境に陥った人間に残された最後の武器だ。
ファンの前では、確執のあったスティーブ・スパリアも擁護し、ダグ・ウィリアムスが他チームのバックアップQBより年棒が低いと知るや、フロントに怒鳴り込む。
大きくて、あたたかなハートの持ち主だったのだろう。

2002シーズン、タンパベイ・バッカニアーズは、念願のスーパーボウルチャンピオンとなる。
それはジョン・マッケイの息子であるリッチ・マッケイが、GMとして作り上げたチームだった。

ジョン・マッケイは、タンパにやってきたことを後悔していたのかもしれない。
しかし、タンパ、いや、タンパベイの人々は、初代コーチが彼であったことを後悔することは決してないのだろうね…

【p】NFL Game Pass International

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