全てのケリがついたあと、ヴァイオリニスト・河島弓子はステージに立つ。
そして兄であるマサコちゃん(常田鉄之輔)のために『亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾く。
彼女を守り支えてきた兄は、オカママジシャンとしてススキノで誰かも愛されていた。
日陰者の化け物であるオカマが脚光を浴びることで、同じく日陰者の客引きの「学生」のやっかみをかい、彼に惨殺されることなってしまう。
実行犯であり生命を奪ったのは「学生」である。
しかし、殺人犯は多数存在する。 生命こそ奪っていないものの、それぞれがそれぞれのタイミングで、自らの中のマサコちゃんの存在を消してしまっていたのだから。
妹である河島弓子も、その中のひとりである。
手に入れた社会的成功とそれに大きな影を落とすオカマである兄の存在。
秤にかけて、約束していた「成功したら一緒に暮らそう」という一言が言い出せずにいた。
だから「私が殺したようなものよ!」と叫ぶ彼女の言葉を打ち消す材料が見つからない。
彼女は、生命こそ奪っていないが、その存在自体を見ようとしていなかったのだから。
真犯人を探しだす行為すらも、兄のためというよりは、自らの罪悪感を払拭するためだといえる。
探偵も同罪である。
「大切な仲間」と叫ぶ割に、彼は動かない。
その死の直後ですら、質の悪い女にハマり、振り回されている。
捨てられてはじめて、ようやく重い腰をあげる。
それすらも女を失った喪失感と、マヌケな自分と、結果的に感じるマサコちゃんへの罪悪感が強いモチベーションを生んだからだ。
マサコちゃんのためではなく、倒すべき噛み付くべき相手が欲しかったと言われても、否定することは難しいだろう。
橡脇孝一郎は、もうすでに一度マサコちゃんを殺している。
二世議員として親の地盤を引き継ぐときに、マサコちゃんから別れを切り出させたとはいえ、その状況を受け入れ、自分の中からカノジョの存在を殺してしまった。
だから、自分のスタッフがカノジョを殺してしまった可能性があるとしても、もう動揺するココロは残っていない。
彼は一度自分の中でマサコちゃんを殺し、罪悪感を感じるココロというやつはその時、大義と引き換えにどこかに捨ててしまった。
罪人である自覚はある。
もうすでに一度殺した記憶はあるからだ。
だから罪を引き受けることに躊躇はない。
ただし、目前の大義を果たしてからだ。
そうしなければ自分が一度そのココロを殺し、二度目には自分のスタッフからその生命を奪われてしまったマサコちゃんの死が本当に無駄死に思えるからだ。
探偵が依頼人を守ることが出来たという意味では、ハッピーエンドと呼ばれるものかもしれない。
しかしその後味は、前作よりもはるかに苦い。
前作『探偵はBARにいる』では、コンドウキョウコと名乗った「沙織」を守ることは出来なかった。
しかし、結果的に、彼女が長い時間と命をかけて準備していた復讐を遂げさせることはできた。
彼女は本懐を遂げ、ほほ笑みとともに命を絶った。
今回は、手を下した殺人犯を見つけ出し、依頼人が誤った復讐に巻き込まれることは防ぐことは出来た。
だが、マサコちゃんのココロを殺した犯人は裁きようがなく、裁きようがないからこそ、それを自覚する人達はこれからもずっとその重荷を背負いながら生きていかねばならない。
誰の想いも成就しないまま。
誰からも愛されたマサコちゃん。
しかし彼女の王国は空っぽで、本当に王女を思ってくれる民など存在していなかったのかもしれない。。。