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村上春樹の「1973年のピンボール」という体験

僕が村上春樹の本をはじめて手にしたのは、「1973年のピンボール」だった。
今にして思えば、それは読書ではなく体験だった。
文章のみではなく、行間と装丁、それらを含んだパッケージが一体となって、僕に体験をもたらしてくれたのだ。

1973年のピンボール

小さな書店の棚にそれはあった。
平積みもされておらず、ポップもなく、ただ無造作に棚に並んでいた。
もっともその時代に手書きのポップなどというものは存在せず、もし万が一あったとしても、その小さな書店の店主は、とてもそんな細かい作業をするような人物には見えなかった。

「村上春樹」という著者に、いっさいの情報を僕は持たなかった。
例え調べたところで、2作目の著書を出版したというだけの著者には、何か聞き覚えのない新人賞を受賞した程度の情報しかなかっただろう。
それにそもそも、「検索」するなんて習慣は、その頃には存在しなかった。

背表紙のタイトルが気になって、棚から引っ張り出した僕の目に、佐々木マキのカバーイラストが飛び込んできた。
見たことのないイラストは、感じたことのない感覚を僕に与えた。

ちょうどいい感じのサイズのハードカバーが手に馴染んで、対して内容にも目を通さずにレジに向かった。

そうして僕は、その本の中に入り込むことになった。
のめり込むのとは違う。
もっとディスタンスを取るように要求する文章に言われるがまま、一定の距離を保ったまま、しかし、その本の中に入り込むことになった。
終盤、ついに倉庫で「彼女」に再会して交わす言葉。
いまだになんと表現していいかわからない感情を味わった。

その本では、適度に大きなサイズのフォントが用いられ、これまで見たことがないくらいに行間が開けられていた。
その余白感が、人と馴れ合うことのない文章と高い相乗効果を生んでいた。

そうして、風の歌を聴けに遡り、羊をめぐる冒険まで一息に駆け抜けた。

しかし、それ以降、段々と距離を置くことが多くなっていった。
全く読まなかったわけじゃない。
いくつか手に取ってみたけれど、自分の中に何かを感じることはできなかった。

久しぶりの文庫本

しばらくたってから、1973年のピンボールの文庫本を手に入れた。
ひさしぶりに、あの感覚が味わいたくて…

しかし、だめだった。
読み進める僕に、あのような感覚がわくことはなかった。
懐かしいだけで終わってしまった読書のあとに、なぜなんだろうという疑問が残った。

はじめて読むわけではないから?
僕が、擦り切れた大人になってしまったから?

そうして、それが、あのハードカバーではなかったからだということに気づいた。
適切な厚みを持ちながら、しっかりとしたハードカバーで装丁された本の重みと手触り。
タイトルと佐々木マキのイラストのもたらすアノニマスな感じ。
しっかりと余白のとられた行間。
そうしたものに、あの文章が一体となってはじめてのあの体験が得られるのだ。

誰かを好きになるときに、まず外見だけを好きになることはあるかもしれない。
しかし、いきなり内面だけを好きになることなんてあり得ない。
誰かさんがあなたの目を奪うとき、魅力的な外見とにじみ出る魅力的な内面は一体となって、あなたをひきつけているはずだ。
あなたをひきつける魅力の、どれが外見だけで、どれが内面だけかなんて判別することは不可能だ。
それにそもそも、そんな場面で、人はそんなに冷静には考えられない。

だから、人は冷静になったとき、恋に終わりにつげたとき、ようやっとそのことを振り返ることができるようになる。
優しいけれど、優柔不断だったとか。
グッドルッキングなのに、とても冷たいところがあったとか。

だから、今、僕は冷静に分析できているのかもしれない。
なぜ、あのとき、あの本が僕を惹きつけたのかという理由を。

ポニーテールの髪型だったから、振り返った笑顔が太陽の光を浴びたから、まだ春が始まったばかりだから。
そんなタイミングで、そんなタイミングにしか存在しない10代の彼女に恋するようなものだ。
大人になった彼女が、どれだけ綺麗になっていようと、どれだけ洗練されていこうと、あのとき僕を捉えた彼女ではない。

あのときは一生の恋だと思ったものが、そんなものではなかった。
そうした経験をいくつも重ねるうち、そんなことには慣れっこになってしまって、もうさざ波すら広がることはない。
でも、寂しさが消えてしまうことはない。
だから僕は、こんな駄文を書いてしまうのだろう…

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