才能なんてものが、自分に備わっているなんて思ったことは一度もない。
だから、自分のそれが活かせる道なんて、これまで考えたことはなかった。
そんな僕が、またあらためて、その持ち合わせていないものについて考えたのは、この記事がきっかけだ。
木梨憲武お悩み相談「自分の才能や合う仕事がわかりません(22才男性)」
相談者の彼のように、将来を見通して自分の才能が活かせる道を、真剣に考えたことなんてなかったなぁ…と。
才能とは、次のように定義されている。
物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。「音楽の才能に恵まれる」「才能を伸ばす」「豊かな才能がある」「才能教育」
情報源: 才能(サイノウ)とは – コトバンク
だが、定義よりも何よりも、才能とは誰が見たって光り輝いているもの。
そうした輝きを自分に見つけたことはないし、僕の出会った誰もがまばゆい顔を見せたことはない。
だから、そうしたギフトは受け取っていないものだと思って生きてきた。
キャリアポルノ的に表現すれば、誰もが皆、自分だけの才能を持っているということになるのだろう。
しかし、お生憎様。
そっち方面には、長いこと不感症だ。
だから、そのギフトは、ひと握りの選ばれた人たちだけの占有物だと思ってる。
そうして長いこと、持たざる者の自覚だけはしっかりと握りしめて生きてきた。
熟練した「折り合い」のスキルは、持って生まれた才能ではなく、後天的に努力して身につけた技術だ。
もしかしたら、何がしかの才能は持っているのかもしれない。
たまたま、それを発揮する場面に出くわしてこなかっただけかもしれない。
しかし、発揮される場面がなければ、それはやっぱり持ちあわせていない事と何ひとつ変わらない。
徳川の埋蔵金とおんなじだ。
あるかもしれないという希望的観測は根強いが、現実には一両たりとも見つかっちゃいない。
今さら発掘プロジェクトに取り掛かるには、時間も資金も甚だ不足している。
ただ、これまで積み上げてきた「折り合い」と、これからも積み上げなきゃいけない「折り合い」の只中で、今こうしてため息をついている。
何かで人の役に立つための、そうする事で自分が喜びを得るための、才能とはひとつのタグなのだ。
そうしたことに深く向き合う努力も怠り、袖振り合う縁も見落としてきたオトコへの報いが、ため息だけで済むのなら、それは情状酌量と呼んでいいものなのかも知れないが…