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「かもめ食堂」空白と余白と

初めてかもめ食堂を観た。
観たかったから、というわけでもない。
その映画の名前は知っていたが、どんな内容なのかは知らず、対して興味も持っていなかった。
では、どうして観たのかと言われれば、それは空白を埋めようとしたからだ。

情報源: Kamome shokudô (2006)

居心地の良さ

ふと持て余した空白の時間、現代においては、動画を視聴することが一番手軽に埋め合わせる手段ではある。
しかし、ささやかな会話さえ重大な伏線となるように綿密に設計された映画や、資本関係が複雑に結びついた子会社の連結決算を精査するようなユニバースものを観るには、こちらも相当の体力と気合が必要とされる。

いっときも飽きさせるものかとギッチギチにピークポイントを詰め込んだプロの編集と、流暢に喋るアマチュアがひしめくYouTubeに向かい合うにも、また違う種類の体力が必要になる。
どうしたものかと思ってU-NEXTにぼんやり潜っている時に、これに出くわしたのだ。
ながら見でもいいし、辛くなったら再生をやめればいい、その程度のものを探していた僕には、しっくり来る。
なにしろ、その時の僕は観たいものを前のめりで観ることではなく、空白を埋め合わせようとしただけなのだから。

この映画には衝撃の展開は全くなかったし、物語の存在さえ曖昧だ。
だが、横目で見ていた僕は、いつしかそこに居心地の良さを感じ始めていた。
癒しだなんだとイージーに表現できる種類のものではないナニカ。

何かがあっても何もなさ過ぎても

登場人物の人生が深く語られることはない。
彼女たちは何かがあって、はるかフィンランドまでやってきたのだろう。
あるいは、何もなさ過ぎて…
そうして彼女たちは、日常というシーンを積み重ねていく。
物語などないままに…

それはまるでリアルな人生のようだ。
何かがあっても、あるいは、何もなさ過ぎても、僕らは日常というシーンを積み重ねていく。
そこに物語があるかと問われれば、今のところは分かりませんとしか答えられない。
もちろんこれまでのシーンにタグ付けして編集すれば、物語と呼べるものは拵えることができるかもしれない。
それは切り口によって、スポ根があり、ラブストーリーがあり、悲劇があり…
人によってはサスペンスドラマが成立するかもしれない。
あるいは立志伝としてToo Muchに美化された物語に自己陶酔する者もいるかもしれない。
僕らは、そのあらゆる物語を経験しながら、その物語だけを生きていない。
もちろん、大きな括りでコメディとまとめることはできるだろう。
主人公自身は1ミリも笑えないシニカルなコメディではあるが…

余白の日常

シーンとシーンの間に余白がある。
激情と平静の間に余白がある。
それが僕らが日常というインターフェイスを通して体験する人生というやつだ。
この映画には、その余白感が溢れていた。
それが、僕を心地良くさせていたものの正体だ。

今の僕にとって重要で心地いいのは、この余白感なんだとはじめて気がついた。

空白の人生では寂しすぎる。
しかし、イベントとエピソードが隙間なく詰め込まれた人生もビージーすぎる。
もちろんそれがハッピーなものばかりであれば拒む必要もないけれど、得てしてその裏返しのことばかり…

OK!ちょっと一服させてくれない?
という願いが聞き入れてもらえない時こそネガティブなイベントが目白押しだ。
どんなイベントが起きるか選べないのはわかったから、ちょっとだけ余白の時間をちょうだいよ!
今は、そう願っている。

たとえ、充分なマージンの後のネクストチャプターが、例によってパッとしなくても大丈夫。
おにぎりで腹ごしらえして、日常というシーンを積み重ねていけばいいだけのことだろう…

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